登入携帯電話の画面を見つめたまま、紗英はしばらく動けなかった。
記事に自分の名前は書かれていない。顔にぼかしも入っている。 それでも、関係者が見れば、写っている女性が紗英だとすぐに分かるだろう。 夫の死後に現れた「もう一人の妻」 葬儀の場で澄香に詰め寄る姿だけを切り取られれば、誰の目にも、正妻を困らせる愛人にしか見えない。 何度読み返しても、書かれている内容は変わらない。> 高槻家の関係者によれば、雅人氏と女性との間に婚姻関係はなく、女性が一方的に妻を名乗り、葬儀に訪れたという。
高槻家の関係者
いったい誰が、こんな話をしたのだろう。
美津子だろうか。 それとも、葬儀場にいた親族の誰かなのだろうか。 紗英は記事を閉じ、佳奈へ短いメッセージを送った。 ――今から会社に行きます。 すぐに返信が届いた。 ――裏口から入って。表に記者っぽい人がいるから。 記者……。 その文字を見た瞬間、足が竦んだ。 どうして自分がこんな目に遭っているのか、少しも分からない。 本当は妻ではないことを知らなかったから? 夫の葬儀で妻として見送りたいと願ったから? 雅人のすべてを信じていたから?紗英は、かすかに首を振った。
今ある事実がなんであったとしても、紗英は意図して誰かを騙したわけではない。 きちんと事実を話して、周囲に本当のことを知ってもらわなければ。 そう思うのに、通りを歩く人々の視線が、すべて自分への非難のように感じられて仕方がなかった。◇◇◇
契約先のフラワーデザイン会社へ着くと、佳奈の言葉どおり、正面玄関の近くに四、五人の男性が立っていた。
携帯電話で話をしている人の横で、首からカメラを提げた人物が、建物へ出入りする人々の顔を確認している。 紗英は思わず顔を伏せ、建物の裏へ回った。 従業員用の通用口から中へ入ると、佳奈が待っていた。 「紗英さん」 佳奈は駆け寄りかけ、途中で足を止めた。 何を言えばいいのか分からないのだろう。 「あの記者、あそこにずっといるの?」 「うん。会社にも何度も電話がかかってきてて……」 「ごめんなさい。迷惑かけて」 「そんな。紗英さんが悪いわけじゃ……」 佳奈はそう言ったものの、その声には戸惑いが残っていた。 廊下を進むと、事務所にいた人々の話し声が、次々と止まった。 視線が紗英へ集まり、すぐに逸らされる。 いくつもの視線が向けられているのに、誰も何も言わない。 その沈黙が、言葉よりも痛かった。 「水城さん」 制作部長の安西が、会議室の扉を開けた。 「ちょっと話をしてもいいかな」 紗英は黙って頷き、会議室へ向かった。 室内には、安西のほかに社長の飯島が座っていた。 飯島は入ってきた紗英を見て軽く頭を下げたあと、再び手元の記事に目を落とした。 「座って」 安西に促され、紗英は椅子へ腰を下ろした。 「まず確認させてほしい。記事に出ている女性は、水城さんで間違いないのかな」 「……はい」 「亡くなった高槻雅人氏と交際していたことも?」 「交際ではありません」 紗英は膝の上で、両手を強く握った。 「私は、高槻雅人さんと結婚していました」 飯島がわずかに息を吐き、何とも言えない表情を浮かべる。 安西が続けた。 「水城さんは結婚していたとおっしゃったけれど、記事には婚姻関係はなかったと書かれています」 「婚姻届が出されていなかったんです」 「それは、結婚していなかったということでは?」 「私は、提出されていると思っていました。彼から受理証明書も渡されていたんです」 「それは正式なものだったの?」 その言葉に、紗英は唇を噛んだ。 「いいえ。公的に発行されたものではなく……偽造された書類でした」 誰がそれを作ったのか。 雅人が紗英を騙すために用意したのか。 そこまで考えるのは、まだ恐ろしかった。 「水城さんは、騙されていたということ?」 「そう……いうことかもしれません」 安西の質問に答えているうちに、二年間の結婚生活がすべて偽物だったと突きつけられているようで、目頭に熱が集まってくる。 「なぜ、そんなことを」 なぜ? そんなことは、紗英の方が教えてほしい。 「ヴァレストラ・ホスピタリティ・グループの取締役が、結婚詐欺まがいのことをする必要がどこにあるのか。私には分からないな」 飯島が、ためらいがちに口を開いた。 疑われている。 紗英の言葉よりも、名門ホテルグループの取締役という雅人の肩書の方が、信用されているのだ。 「水城さんが参加していたプロジェクトチームのメンバーにも、事情を聞かせてもらいました」 安西が言った。 「あなたが結婚したことを知り、何人かの親しいメンバーがお祝いをしたことは確認しています」 「はい。皆さんに祝ってもらいました」 「その席に、高槻さんは?」 「……いません。私の職場内でのお祝いでしたので」 紗英の言葉に、安西と飯島が目配せをする。 「あなたは、結婚を公表できない事情があるとも話していたそうですね」 「それは……夫に、雅人さんにいろいろな事情があって、公表はもう少し待とうということになったので」 「その事情というのが、妻と子どもがいることだったのではありませんか?」 「そんな話ではありません。彼の会社の問題に、私が巻き込まれないようにと……」 思わず語気が荒くなる。 雅人は自分を気遣い、結婚の公表を遅らせていた。 私のためだと、彼は確かに言っていた。 「同じ部署の篠原さんが、以前、ホテルの催事で高槻さんとお会いしたことがあったそうです」 安西の言葉に、紗英の肩がわずかに揺れた。 「高槻さんに妻子がいるということも知っていた。ただ、あなたが夫だと話していたため、事情を承知したうえで、関係を続けているのだと思っていたそうです」 「私は、愛人だと思われていたんですか」 紗英の声は震えていた。 「結婚という話も、周囲への説明としてそう言っているだけだと思っていた、と。昨今は、結婚や男女関係にもいろいろな形がありますから。非常にデリケートな話でもありますしね」 安西が一つ息を吐いた。 ”以前から、紗英は雅人の愛人だと思っていた人がいる”という事実は、紗英の心を深く抉った。 「水城さん」 安西が机の上で両手を組み、背筋を伸ばした。 「あなたの心中は、お察しします。ただ、会社としては、このまま何もなかったように仕事をお任せするわけにはいかない」 「どういうことですか」 紗英は、足元から体が冷たくなっていくような感覚に襲われた。 「ヴァレストラは、わが社の大口取引先です。年間契約を何度も更新してもらっている」 安西は、机の上の紙を紗英の前に置いた。 ヴァレストラ系列のホテルで予定されていた、秋のブライダルフェアの計画書。 紗英がメインデザイナーを務めるはずだった案件だ。 「この仕事は、別の担当者へ変更することになりました」 「どうしてですか」 思った以上に掠れた声が出た。 喉の奥に何かがへばりついているような違和感がある。 「先方からのご要望です」 「私が雅人さんと関係していたから?」 「先方は、そうは言っていません。ただ、現在報道されている人物を案件に関わらせるのは好ましくない、と」 言い方を変えただけだ。 「ほかにも、二件の案件が保留になっている。しばらく、新しい仕事を君に振るのも難しい」 「私は、仕事で問題を起こしたわけではありません」 「分かっています」 「では、なぜですか」 「依頼主が不安を感じているからです」 紗英は言葉を失った。 フリーのフラワーデザイナーである紗英にとって、仕事を任されないことは、収入を断たれることと同じだった。 会社員のように、待っていれば毎月給料が振り込まれるわけではない。 「いつまでですか」 「事実関係が明らかになるまで、ということになるでしょう」 それが一週間なのか、一年なのか。 あるいは、二度と仕事へ戻れないのか。 その可能性は十分にある。 「できれば、こちらの会社へ来ることも控えてほしい」 安西は、申し訳なさそうに言った。 「ほかのスタッフや取引先まで混乱に巻き込めば、さらなる問題が起こりかねない」 紗英はうつむいた。 自分がいることが迷惑になる、とそう言われているのだ。 「承知しました」 それ以上、何も言えなかった。 会議室を出ると、佳奈が廊下で待っていた。 「紗英さん」 心配そうな佳奈に向けて、紗英は無理に口角を上げた。 けれど、うまく笑うことはできなかった。 「しばらく、ここには来ないことになったから」 「そんな……」 「仕事も、ほかの人に代わってもらうことになったの」 佳奈は目を伏せた。 「私、紗英さんは悪くないって信じていますから」 「ありがとう」 けれど、佳奈の言葉にも、「信じている」とわざわざ言わなければならないほどの疑いが含まれているように感じてしまう。 今までなら、そんな受け取り方はしなかった。 誰かの善意さえ、そのまま受け取れなくなっている。 紗英は、佳奈に手を振ると、会社を出るために裏口へ向かった。 技術を磨き、学びを深め、がむしゃらに働いて、必死に手繰り寄せた信頼だった。 フリーでも花を扱う仕事で食べていけるのは、自分の努力が実ったからだと信じていた。 それが、あっけないほど簡単に崩れてしまった。 失われていく足元に、紗英にはなすすべがなかった。帰宅すると、入れ違いにハウスキーパーの田所がちょうどエプロンを外し、仕事を終えて帰ろうとしていた。「お帰りなさいませ。今日はお仕事、いかがでしたか?」「ええ。順調でした」「それはよろしゅうございました。お仕事に出られるようになってから、表情が明るくなられましたもの」田所の言葉に、紗英は小さく笑った。実際、仕事は順調だった。担当者とも打ち解け、デザイン案も少しずつ形になっている。それなのに、どうしてこんなに気持ちが重いのだろう。――弟から兄だなんて。三枝の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。考えたことがなかったわけではない。世間からどう見られるかも、怜司にどれほど迷惑をかけているかも、自分なりに理解しているつもりだった。ただ、面と向かって言われると、何一つ反論できず、言われた言葉は自分の中で反芻されるばかりだった。雅人を愛していた。結婚していると信じ、二年間、妻として暮らしていた。その雅人が亡くなり、今は怜司の妻になっている。しかも最近は、怜司の帰りを待つことさえ楽しみになっていた。契約で始まった結婚なのに。そんな自分が、少し怖かった。玄関の扉が開く音がした。「ただいま」いつもより早い怜司の帰宅だった。「おかえりなさい」紗英は立ち上がり、笑顔を作った。「今日は仕事、どうでした?」「順調でした。試作も、担当の方に気に入っていただけたんです」「それはよかった」怜司は微笑んだが、すぐに紗英の顔を覗き込んだ。「……何かありましたか?」「え?」「少し疲れているように見える」紗英は慌てて首を振った。「今日はずっと立って作業をしていたので、そのせいだと思います」「そうですか。あまり無理はしないでくださいね」そう言って、怜司はネクタイを緩めた。
ホテルのロビーに、色とりどりの花が並べられていた。「こちらの花器でしたら、もう少し枝物を減らした方が、奥のソファからも見通しがよくなると思います」紗英が提案すると、ホテルの担当者が頷いた。「確かに。正面からだと華やかなんですけど、横から見ると少し大きいですね」「そうなんです。待ち合わせに利用されるお客様もいらっしゃいますから、視界を遮らない方がいいと思って」紗英は、用意していた花材を少し入れ替えた。今日は、最初に提出したデザイン案をもとに、実際の花器を使った試作を行っている。何度か打ち合わせを重ねるうちに、ホテルの担当者とも気軽に意見を交わせるようになっていた。「やっぱり現場で見てもらうと違いますね」「ありがとうございます。実際に置いてみないとわからないことも多いですから」「この前のラウンジの案も、責任者がすごく気に入ってました。次の打ち合わせもよろしくお願いしますね」「こちらこそ、よろしくお願いします」自然と笑顔になった。仕事を失ったときには、もう二度とこんなふうに花に触れられないかもしれないと思った。それが今は、ホテルの担当者と意見を交わしながら、一つの空間を作り上げている。積み上げてきた実績も仕事も、一度は失ったからこそ、改めて思う。やっぱり、私はこの仕事が好きだ。花で空間を彩り、そこで過ごす誰かの時間をよりよいものにする。そんな仕事を、また始められたことが嬉しかった。◇◇◇作業を終え、紗英が資料を片づけていると、背後から声をかけられた。「水城紗英さん、ですよね?」振り返ると、見覚えのない女性が立っていた。四十歳前後だろうか。きっちりとまとめた髪に、上品な紺色のスーツがよく似合っている。「あ、はい。そうですが」「私、三枝理香と申します。本社の営業企画部におります」差し出された名刺を受け取ると、女性は穏やかな笑みを浮かべた。「以前は
「澄香さん。あなた、ずいぶん上手く仕事をこなしているそうじゃない」澄香は、ダイニングの扉から入ってきた美津子の姿に、驚く。彼女が、夕食の席にやってくることなど、ほとんどない。「はい。皆さまのお気遣いもあって快適にお仕事をさせていただいています」「悠真のためにも、あなたが会社で認められておくのはいいことよ」美津子は、ダイニングテーブルで食事をしている、悠真の方に視線を走らせる。「あなたの仕事については、黒瀬さんがしっかりサポートをしてくださるそうよ。悠真が将来会社に関わるときのためにも、今のうちから内情を知っておくのは良いことだわ」澄香は黙って頷いた。さっきまで、食事をしながら、楽しそうに友達の話をしていた悠真は、美津子の姿にすっかり黙り込んでしまった。「それより、怜司さんがあの女のせいで、会社を引っ掻きまわしているみたいよ」「……そうなのですか?」「雅人が築いた取引関係まで疑うようなことをしているそうだわ。まったく、何を考えているのかしら」澄香は、先日黒瀬から聞いた話を思い出した。「まったく。怜司さんもあんな女に振り回されて。目も当てられないわね。育ちが悪いったら――」「お母さま。悠真の前ですから」澄香は、慌てて美津子の話を遮った。「ああ。そうね。悠真。早く自分の部屋で勉強しなさい」悠真は、いつものように小さく「はい」と返事をすると、ダイニングを後にしようとする。「悠真。あとでお部屋にデザートを持って行ってあげるわ」そう声をかけると、悠真は嬉しそうに頷いて階段を上がっていった。美津子は、リビングへ移り、ソファに腰を掛けた。澄香はそこへコーヒーを運んだ。「黒瀬さんがね、怜司さんが過去の契約まで調べ始めたせいで、昔からの取引先にまで迷惑がかかっているって言っていたわ」美津子は、コーヒーを飲みながら、澄香に手で向かい側に座るように促した。「引っ掻き回されているっ
黒瀬は、机の上に置いた資料を忌々しげに睨んでいた。系列ホテルの過去の装花契約について、追加資料の提出を求められている。最初は副社長の妻との直接契約を問題にしていたはずなのに、いつの間にか調査の範囲が広がっていた。「なぜ、こんな昔の案件まで調べる必要があるんだ」向かいに立つ部下は、答えに困ったように視線を落とした。「経理からの依頼です。今回の契約との比較資料にするそうで、系列ホテルで共通する取引先についても確認するようにと」「比較なら、過去一年分で十分だろう」「それが、雅人専務の時代まで遡るようにという話でして。新しく契約されたフラワーデザイナーの信用問題に関係するということだそうで……」黒瀬は、思わず舌打ちをしそうになった。新しいフラワーデザイナーとは、雅人の愛人で、今は副社長の妻となった女のことだ。――まったく忌々しいあの女は、雅人の死によって、妻の座も、仕事も、家もすべてを奪われて、消えてしまう予定だった。それがどうしてこんなことになったのか。――金づるだった雅人が死んだら、その兄に鞍替えとは。まったく強かな女だ高槻の家で出会った時には、しおらしくして扱いやすそうに見えたが、結局、あのあと、女から連絡は来なかった。副社長側にすっかり取り込まれたようだ。――遡って、契約を洗い出すなどその中には、今さら掘り返されては困るものがいくつもある。「具体的には、どこまで調べているんだ?」「系列ホテルのうち、雅人専務が直接関わられた案件を中心に、契約書と請求書、それから納品記録の照合を進めているそうです」「納品記録まで?」黒瀬は思わず顔を上げた。「はい。特に海外から調達した花材については、仕入れ先や搬入記録まで確認するようにと」「……ずいぶん細かいことをするんだな」黒瀬は、苛立ちを隠せなかった。「わかった。こちらでも確認しておく。資料は勝手に提出するな」部下が退出すると、黒瀬は携帯電話を取り出した。連絡先を開き、しばらく指を止める。そして、一件の番号を選んだ。「……私だ。少し確認したいことがある」電話の相手は、雅人と取引のあった業者の責任者だった。「過去の請求書について問い合わせが来ていないか?」『ええ。ホテル側から、納品記録を確認したいと連絡がありましたが』「何と答えた?」『古い案件ですから、資料を探して
夕食を終えたあと、怜司が珍しくノートパソコンを持ってリビングへやってきた。「紗英。少し仕事のことで相談したいんだけど、いいかな?」名前で呼ぶようになってから、怜司の接し方は少しくだけたものに変化していた。その距離感に紗英は、まだ少し照れがある。「はい。私でよければ」隣のソファに腰を下ろした怜司が、パソコンを開く。「澄香さんからの話は聞きました。黒瀬が接触してきたそうですね」「はい。澄香さんには、あまり無理をしないでほしいんですけど……」「そうですね。高槻に家にいると、彼女の周囲に味方は少ないでしょうから。せいぜい、黒瀬に話を合わせておく程度で、深入りしないように彼女に伝えてください」怜司はそう言って、画面を紗英の方へ向けた。「実は、過去の装花契約について調べているんですが、気になるものがあるんです」表示されていたのは、請求書をまとめた資料だった。「これは……ホテルの装花費用ですか?」「雅人が関わっていた件です。契約上、かなり高額な花材が納品されたことになっているんですが、実際の納品記録と一致しない」紗英は画面を覗き込んだ。ホテル名、施工時期、花材の種類、数量。馴染みのある項目が並んでいる。「少し見せていただいてもいいですか?」「もちろん」そう言うと、怜司は、身体を寄せて見えやすいようにPCを紗英の前に出した。紗英はパソコンを自分の方へ引き寄せ、請求明細を読み始めた。「……あれ?」最初に気になったのは、花材の数量だった。「このホテル、改装前のロビーですよね?」「そうです。今から二年ほど前の案件ですね」「私、ここに行ったことがあります。以前、装花の打ち合わせで伺ったんです」紗英は、記憶の中のロビーを思い浮かべた。広い吹き抜けが特徴的なホテルだったが、正面には
黒瀬の背中を見送りながら、澄香は小さく息を吐いた。彼は、こんな陳腐な芝居でも、こちらが素直に信じると思っているのだろう。今までの自分なら、そうだったかもしれない。誰かがこうしろ、と命令すれば、そのとおりにしていたはずだ。しかし、今は違う。少なくとも、悠真のこれからについては、自分が慎重に考え、絶対に周囲に流されることのないようにしないといけない。澄香は、携帯電話を取り出し、さきほどの黒瀬とのやりとりについて、紗英にメッセージを送った。ほどなくして返事が届いた。『あまり無理をして、そちら側を探らなくてもいいですからね。危ない目に合わないようにしてください』澄香は、少し考えてから返信した。『大丈夫です。私、演技は上手いんですよ』すぐに返事が返ってくる。『澄香さんに何かあったら、大変ですから。くれぐれも注意してください。この件は怜司さんにも伝えておきます』返事のスタンプを送り終えると、澄香はもう一度、仕事の資料を手に取った。◇◇◇「黒瀬が、澄香さんに?」佐伯の報告を受け、怜司は眉を上げた。「はい。インテリアデザイン部門で、しばらくお話しされていたそうです」「なるほどな。澄香さんなら、簡単に言いくるめられると思ったわけか」怜司は口元を緩めた。黒瀬が澄香を利用し、紗英との対立構造を作り、怜司の評判にも傷をつけようとしていることは容易に想像できた。ただ、黒瀬は知らない。澄香と紗英が、すでに互いを信頼していることを。「それから、副社長。過去の装花契約について、追加の報告がございます」佐伯は別の資料を机に置いた。「黒瀬部長が承認していた案件のうち、ホテル側の納品記録と請求内容が一致しないものが、ほかにも見つかりました」「同じ取引先か?」「はい。複数の系列ホテルで利用されています。現在確認できたものだけで、請求額は約八千万円になります」怜







